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地名の通り、清閑な山と谷に抱かれた地に江戸時代に建てられた閑谷学校はあります。
寛文10年(1670)岡山藩主、池田光政が儒学に基づく士庶共学、庶民を含めた平等の教育を目指してこの地に学校を開いた。
創建当時は、簡素なかやぶきだったが、学校奉行、津田永忠(ながただ)が元禄14年(1701)に大改修して、今のような壮麗な講堂、聖廟、石塀などが出現したという。
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身分制度が厳しかった江戸中期、藩士だけでなく、農民など庶民の子弟、他藩の好学者にまで門戸を開いた学校は、岡山藩が初めていわれ、当時先進的な教育機関だったといえる。
以来、苦難と変転を繰り返しながらも連綿と“学灯”が守り継がれてきた。
構造物のほとんどが国宝や重要文化財に指定されている。
訪れたときは、梅が美しかったです。
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かまぼこ形の石塀。表面は硬い水成石の切り石を張り合わせたもので、中に栗石が入っており雑草一本なく、すべすべしている。
重要な建物は一度も火事で消失しなかったことは奇跡に近いです。
それは、講堂などの建物群がある一画と火事を出しやすい学寮、厨房などがある西側の一画とが火除山と呼ばれる人造の防火丘陵で完全に遮断されているからです。
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国宝講堂全体から凛とした雰囲気が漂ってきます。
駐車場に車を止めて閑谷学校に向かって歩いていくと壮大なパノラマが広がってきて、息を呑みます。
建物はすべて赤い備前焼瓦で統一されており、建物の周りを石塀が整然と囲みます。
地形の高低、建物の配置のバランスは見事で圧倒されます。
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巨大な槐の木が2本孔子を祭る聖廟の前に立っています。
大正14年に中国から持ち帰った種子を苗に育てたものが植えられたそうです。
紅葉のときは見事だそうです。
講堂に使われた備前焼瓦だけでも25000枚、聖廟なども合わせると10万枚近い瓦が焼かれたという。
とにかく瓦の色が美しいのです。
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津田永忠の偉業
光政、綱政2代の藩主に重用され、閑谷学校、和意谷墓所、後楽園の造営、大規模な新田開発、難民救済、藩財政の建て直し‥‥と次々と大事業をやり遂げた超人的な仕事ぶりからみて、岡山藩200年の歴史を通じて最も傑出した藩政家だったといえる。
以前、NHK教育テレビで放映されていた「国宝探訪」は、私を日本の美の世界にいざなってくれて毎週楽しみに勉強させてもらっていました。
その番組も残念ながら終わってしまったのですが、その最終回が、閑谷学校でした。
ずっとナレーターを努められていた長谷川アナウンサーがついに登場されて、この閑谷学校の石塀を歩かれていたのが印象的でした。
それから、いつかは訪れてみたいと思っていたのですが、訪れてみると、最終回に相応しい凛としたという言葉が一番良く似合う場所でした。
この閑谷という名前も池田光政が名づけられたそうです。
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