今日はちょっとお恥ずかしいお話。 幅が1300あまりしかない場所に蹲踞を据えて欲しいという依頼。 砂利敷きの通路部分は70センチ足らず。 プランターを撤去してそこに水鉢を据える。 役石も据えてなおかつ通り道も確保しなくてはならない。 なんとか収めてみた。水鉢の中心から前石の中心まで60センチ。 この距離は昔から2尺〜2尺5寸が標準とされているのでなんとかぎりぎりの数字である。 前石をこれ以上後ろにずらすと、かがんだときにおしりが家の壁に当たる。 通り道の確保を考慮すると致し方無いと判断。 湯桶石、手燭石も体裁が整えばよいくらいの考えで少し小ぶりだが場所を取らない石を選択した。 茶道を嗜んでいらっしゃるお客様にも一応見て頂いてその日現場をあとにしたのだが、、、 その夜、お客様から「蹲踞を使ってみたがこの距離では着物にハネが上がる。」と電話をいただいた。 また、「手燭石が小さくて手燭が乗らない」とも。 私は(少し腹を立てて)、この幅では要求が難しいこと、最小限の距離は確保したことを説明し、 いずれにしてもやり替えるならコンクリートの海が完全に固まってしまわぬうちに ということで 翌日(日曜日だったが)うかがうことにした。 翌朝仕事支度をしながら昨夜の事を私は反省しだしていた。 替えとなる湯桶石と手燭石を置き場で探しながら、湯桶と手燭の寸法を思い起こす。 湯桶は直径が1尺近くあるし、手燭も長手の部分は9寸はある。 これらがちゃんと乗るだろうかと考えながら役石を探すのは造園屋として当たり前のことだ。 当たり前のことなのに自分はそれをないがしろにして 景色的に蹲踞らしければいいのだろうと 適当になっていた。 「お茶をやっていますの」と言いながら、蹲踞を据えても全く使わず水鉢が汚れきっている方を何人も見てきた。 創作蹲踞と称して役石を省略したり、景色の飾りでしかない”つくばいもどき”がどこにでも見られるようになり 自分もそれに抵抗を感じなくなり、蹲踞で遊んだりしてきた。 「ちゃんとわかってくれる客が居ない」からこの程度でいいんだという気持ちがどこかにあった。 そんな気を抜いた仕事をしていると「本物」を要求されたときにハッとするのだ。 このお客様は手燭を使ってちゃんと「夜咄」もされるくらい本格的にやっていらっしゃるのに 私はなんと失礼な仕事をしたのだろう。 (※夜咄(よばなし)とは冬の夜間に行われる茶事) 当たり前のことをいい加減にして、何とも恥ずかしい限りだ。 役石となりそうな石を二組積み込んで現場に向かった。 実際に手燭を乗せてお客様に選んでいただいたのがこれ。 水鉢と前石の距離をかせぐために、勝手を少し振っても良いと言われたので 斜め使いに適した前石に取り替え、距離を72センチ確保した。 最初の配置と比較してみる。これが1。 そして組み直した蹲踞。 多少無理はあるがお客様には納得して頂いた。 初めからこうしなきゃなぁ! 悔しさを残して帰る。 二日空けて、明日はこの現場の仕上げだ。 狭くとも小さくとも気を抜かずちゃんとした仕事しよう。(By K)