赤坂の古庭
抽斗から古いファイルが。
ニックネーム: TakaakiKAUFFMAN
投稿日時: 2010/09/23 13:00

抽斗を整理していたら、古いファイルがでてきた。

たぶん、友人に依頼されて大学のレポートを代筆したときのものだろう。

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 企業者史学レポート

 

氏名      

学生番号        

 

 

1. シュペンターとコールの企業者史学の違い

 

 企業者史学の成立は1948年にハーバード大学に設置されたロックフェラー財団出資の「企業者史学センター」の設置にはじまる。その背景として、経済史と経営史に対する批判や経済発展のあり方を再考するという目的があった。当時アメリカでは途上国にお金とモノをつぎ込んでいたが期待に反して経済発展がおこらず、資金援助だけでは経済発展は自然に起こらず人的資源を育成しなければいけない。そのためにより人間個人に重心を置いた研究をすることになり、企業者に関心のある歴史学者、経済学者、社会学者などによる学際的共同研究機関として発足した。

 シュペンターは革新者としての企業者、旧来の慣習的社会構造におけるエッポクメーカーとしての企業者に鋭く重点を当てたのに対してコールは新しく誕生した企業が社会構造に入り込むまでのプロセスまでを広くとらえ安定的成長、外界への適応、集団による活動までを「企業者活動の定義」としたのが大きな違いである。

 シュペンターによる企業者個人に焦点を当てた研究というのは、突き詰めてゆくと旧慣習を破壊し革新的価値を創造するという新結合が誕生する時代の社会的経済的条件の研究という面で一般化することはできても最終的に企業者個人の個性に強く依存してしまい一個の事例に収斂してしまうような気がする。対してコールの定義まで拡大して考えると、ある特異的なビッグバンが個人で起こりそれが社会に組み込まれていく過程の中で一般化されうる管理的業務などはあるていど公式化することもできそうな気がする。

 

2. ダイエー「中内功」は何をしたかったのか?

 

 2003年ダイエーが産業再生機構に委ねられ事実上破綻したのは記憶に新しく、当時「つぶすには大きすぎる」といわれながらさまざまな問題が連日新聞や雑誌に噴出した。今、企業者史学の講義やノート・レジュメを見直しながら「中内功」の企業者史についてあらためて考えてみると中内功は大変幸せな一生を過ごしたのではないかという気がします。

 父親の始めた「サカエ薬局」の手伝いから始まって三宮ガード下で開業した闇市時代の「友愛薬局」。この時、昭和22年から3年間中内は神戸経済大学第二課程に通っていた。その理由が「憲法が欽定憲法から新憲法に変わるということだから、憲法だけはどう変わるのか、民主主義というのはどういうことか、これは勉強しておかなければいかんかなと思って」入学したといっている。俵静夫教授の憲法の講義だけはちゃんと聴きに行ったといっている。闇市の生活が続いている紙一重の生活の中で彼がそう考えたことに興味がある。経済は特に興味を覚えず憲法を勉強して「民主主義」の根本だけは知っておかなければならないと考えたところに中内の理念・抽象性があるように思う。この闇市時代に中内はパチンコ事業や風紀産業に業種変しないかと知り合いにもちかけられるが断っている。どちらの分野に進出してもその分野で成功していただろうと彼自身も言っているが、そこには単に儲かればよいという現実的な欲求より強い理念・欲求があった。

セルフサービス業態の出発点になった現金問屋の大阪平野町の「サカエ薬局」。新聞に「乱売の元祖、サカエ薬局」と報じられることで中内はメディアに「革新者・異端者」と取り上げられることに一種の快感を覚えたのかもしれない。それは常に大衆を意識して商売をしている人間にとっては気持ちのいいものだったに違いない。それ以前に市価よりちょっとだけ安く売る(旧商慣習の中での安住)のではなく、半額という反乱を起こしている(しかし、利益率50%以上という旧商習慣もたいした搾取だと思うが)。

 経営方針の相違から弟博と袂を分けた「大栄薬品工業」。このころから消費者=主婦が求めているものなら何でも扱おうとする理念がはっきり見えてくる。ただ、中内はいったい誰に対して商売をしていたのだろうか。「サカエ薬局」時代の顧客を大切にするなら弟博とともに大阪平野町にとどまってもよかったかもしれない。そして、昭和32年9月に千林に「主婦の店ダイエー本店大阪」をオープンさせる。知り合いで元ダイエー社員の年配の人に聞いた話だがやはりこのころの中内の魅力・活気はある種の憧憬を持って「千林の精神」として語られることが多い。チェーン化・精肉販売することでメーカー、問屋、小売商からの軋轢が激しくなるがこのあたりの障害はむしろ恋愛と同じで障害が強く大きいほど逆にエネルギーと転化して燃えていったのかもしれない。事務所の張り紙に「日常の生活必需品を最低の値段で消費者に提供するために承認が精魂を傾けて努力しその努力の合理性が商品の売価を最低にできたという事が何で悪いのであろうか?」と墨筆されたものをみて中内の原理原則・抽象性がうかがえる。

 「よい品をどんどん安く、より豊かな社会を」というダイエー精神は当初、「よい品をどんどん安く」という言葉に『わが安売り哲学』を書いたことで集まってきた若い人たちにロマンを持たす意味合いを込めて「より豊かな社会を」と続いたと中内功回想録(流通科学大学編、2006年)で述べている。そして豊かな社会とはアメリカを見たからだという。アメリカのライフスタイルを見たからだといっている。特にこの本で印象に残ったのは「回想録インタビューに参加して」と題してあとがきで元岡俊一が書いている

 

最も重要なのは、事業を拡大していくに至る、やむにやまれぬ「動機」や、「より豊かな社会を」という理念に行動を縛られたという“証言”を引き出したことであろう。

 

と中内とともにダイエー時代を含め20年間スピーチライターとして薫陶を受けたという元岡が証言している。一時は10万人の人間を使い仕事をしていた経営者の傍らに最後に残ったのはこの回想録を編集した元岡と大溝だけだという元岡自身、中内が「何をしたかったのか」を今も考え続けている人間の一人である。

 

最後に「流通革命は終わらない」のあとがきに書かれている「野火」は今も燃えているから、中内の人間性が語られるときによく引用されるフィリピンでの戦争体験を原作大岡昇平「野火」特装限定版を読んで追体験してみた。戦争に関する歴史的資料や小説にはほかにももっと悲惨で想像すらできない状況を丹念に書き込まれたものは多い。たとえば重松日記をもとに書かれた井伏鱒二の「黒い雨」には原爆投下後の広島市でのどろどろとした凄惨で希望のかけらもない場面がつぎからつぎに精緻に描かれているものもある。作家の文体のせいか大岡の野火には確かに敗走する兵士の南方における悲惨な状況はかかれているがどこか一歩視点を引いた、ただ、目の前の状況をたんたんと記述しているだけのような空虚さがある。その空虚さや現実としてただ目の前にあるだけ、という感じ。その状況下、頭で何かを考えるということはなく、ただ山を下っていったりする。小説でありながら言葉で表現することを放棄したような文体である。そして、中内はほかのどの本よりこの「野火」に深く共感し敗戦の日8月15日に読み返すという。おそらくその言葉を尽くしても記述しきれない感じが中内を共感させているのではないだろうかと思える。そこから逆により根源的に刻印された記憶というものが感じ取られる。そして、いくら説明してもしきれない事柄に対して中内はさらに言葉を求めようとするのではなく、思考を停止してただ共感する「野火」を読むのではないだろうか。

 

 

 

【参考図書】

中内功回想録 流通科学大学編 2006年9月18日発行

流通革命は終わらない(私の履歴書)中内功著 2000年12月4日 日本経済新聞社

仕事ほど面白いことはない 大塚英樹著 1996年6月5日 講談社

野火 大岡昇平著 1975年5月15日 成瀬書房



 

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ちなみに、彼に聞いたところこの先生の評価は「D]であったとのこと。(涙、、、) 


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