現場に向かう長い道中、撮り溜めた景色の写真がたくさんあります。 特に菜の花が多いのは、美しい田園風景の中を選んで走ったせいだと思います。 3月になって、とても大切にしていた人を失いました。 不思議なもので、それまでどんなに仕事が忙しくても、5時間の睡眠時間を4時間に減らしてでも中断しなかったこのブログを、そんなことで1ヶ月半も休んでしまいました。 心の病は気持ちをくじき、どうやら、おどろいたり感動したりする心の動きをひどくおとなしくしてしまうようです。 いつもならこの3月から4月にかけて、刻々と変わっていく景色に心を踊らされて、いつどこでどんな花が咲いたという記事がわたしの日記を彩るのですが、今年はそうしたことがついぞなく、その菜の花の景色にも、梅やモクレンや桜の開花にも心がほとんど動かないままでした。 ただ一度だけ、わたしの心を騒がしたのがこの景色でした。 なんの変哲もないベニカナメの若葉のアカと、菜の花の小さな群生です。 この赤と黄色の色の組合せがはっと目に飛び込んでこびりつき、毎日その脇を通りながらわたしの心は徐々に回復しました。 もちろんそれ以前も仕事はこなし、日常生活もきちんと送って来ましたので、これを心の病と同列にすることは差し控えた方が良いかもしれません。 ただ、わたしはこのブログで自分が発見したり感動したりしたものを、皆さんと共有したいと思ってきましたし、それを常に読むに値するメッセージにしたいと考えてきたものですから、これはやはり書かなければならないと思った訳なのです。 風景、という言葉が「景色」と違う点は、そこに人の心が介在するかどうかであると、以前に聞いたことがあります。 黄色とやや暗い赤…補色に近い色の組合せが、人の目にとても印象的に映ることをわたしたちは学びました。 自然界にそんな色の組合せが存在するかなと考え、ああ、深い山の紅葉に有ったかも知れないと思い至りました。 ただ、この里の景色は、やはり自然の物ではなく人が強く介在することで誕生したものです。 …ただ、おそらくは意図して産み出された配色ではなかったろうと、想像出来ます。 だから、わたしの心が惹かれたのだろうと、今になって思います。 人がデザインして、つまりは意図して産み出されたデザインには限界があります。 人が製作したガーデンは、しょせんは自然とは似ても似つかぬものです。 でも、扱うものが植物という自然のものだからこそ、製作者の意図とは関係なく、このような思わぬ美しさを産み出してくれる事があるのではないでしょうか。 この仕事を生業にしているわたしだから感じたのかもしれません。 でも、だからこそそれはわたしに対するメッセージであっただろうと、わたしは勝手に思いこむことにしました。 で、人の心の病と、それに対してガーデンというわたしたちの仕事が果たす役割について、わたしは認識を新たにしたのです。 癒しだけがガーデンの効能ではない、と… まあ、それは後の話にします。 まだまだ、これは心のリハビリなもんですから。 里の景色は美しい。 たとえばこんな景色… 単線の踏切脇の空き地にひろがるムラサキハナナは、おそらく自然にこぼれ種で増えたものではないでしょうか? 畑の奥の果樹園に咲く桃の花も、おそらくは観賞用に植えられたものではないでしょう。 この、畑の中のリキュウバイも、通りすがりのわたしではなく、畑の持ち主にとっての憩いなのだと思います。 あいかわらず人気の芝桜の丘とかの観光を目的とした植栽が、最初の5分くらい感動した後はうんざりすることの方が多かったり、あるいは写真に納めてそれで満足出来てしてしまうのとは違い、里のこうした景色は何度訪れても美しいと思い、とてもそれは写真では表現しきれないと思えます。 それをだから、風景と呼ぶのでしょうね。 ホームページもよろしければご覧下さい。 http://www.yui-garden.com/