花と樹と風と土 ガーデン工房 結 -YUI- のガーデン通信
地震のあと06 被災地を歩く(阪神淡路大震災)
ニックネーム: 向井康治
投稿日時: 2011/03/22 06:48

昨日も雨の中でしたが、電車と徒歩で打合せに出掛けました。
わたしのホームページをご覧になり、声を掛けて下さったお客さま。
第一声が、「歩いて来られたんですか?」
ブログも読んでくださっていた様子なので、初めてお会いしたとは思えないくらい親密に、楽しくお話しが出来ました。
この日は秩父鉄道の改札を通るたび、駅員さんが
「明日から平常運転です! 急行以外、通常ダイヤで運行しまーす」
と声を張り上げていました。
寒い一日でしたが、何だかそれだけで気持ちが幾分暖かくなったようです。

本当に早く、みんなが元に戻れば良いのですが…



前回のブログに書いた阪神淡路の被災地のこと…

その時に書いた文章が見つかりましたので、ここに乗せます。
当然16年前の自分が書いたものですが、今になって改めて考えさせられることも多く有りました。


 災害から数えて9日目。初めて被災地に降りた。
 3日目に神戸に戻ったものの、ここ鈴蘭台は比較的被害も少なく、ライフラインの復旧も速かった。幸いにしてわが家はほとんど無傷で、まったく申し訳ないほどだ。ここに居る限りは災害の実態がまるで見えてこない。狭山に居た時と大した変わりがないと家内は言う。ただ、それでもアスファルトの亀裂があり、ガス復旧のために掘り返した跡に砕石が露出してあり、一部の生活物資が不足し、交通の主要な中継点ということもあって交通量が異常なほどに膨大していることで、かろうじてそれと知れる。テレビはうんざりするほどに見た。それでも飽かず見ている。ほんとうに嫌になるのだが、それでも見ずにおれない。
 できるところから、ということで仕事を再開したのが7日目だ。仮住まい先で被害にあった客のためにも、早々に仕上げてあげたい現場もある。それが動き始めてようやく、わたしは被災地に降りた。何軒か、被災地の真ん中に位置する顧客もいたし、これから着工する現場の状況も把握しておかなければならなかった。消息のつかめない知人もいた。
 渋滞のために救援の遅れている被災地に、車で降りる気にはなれなかったので混雑する電車を乗り継いで新神戸まで行き、三宮まで歩いた。頭上に覆いかぶさるようにしてビルが傾いている。華やかだった三宮の繁華街が見るも無残な姿をさらしていた。6車線道路の中央を歩いて眺める景色は、まったく別の世界を見るようだ。こんなにもろいものだったのかと愕然とする。それらは、常にそこに有って変わることなく有り続けるものだと、知らず信じていたのだ。たかだか一度の地震程度でこれほど変わり果てるとは、現実に目にしても信じられない。むしろ、目に見る現実の方が、よほど虚構じみている。その中には何度か通ったスナックや洋酒バーも有れば、ジャズスポットも有って、どれも気になったがこれは仕事だ。いちいち訪ね歩く暇は無かった。
 三宮から代替バスで西宮まで。車窓の光景の凄まじさは、ビルの崩壊とはまた別の意味で壮絶だった。一階が押しつぶされ土壁と瓦屋根とが歩道を覆っているのは、どれもつい先頃まで人が暮らし、家族の団欒が有って、あるいはいがみ合いや孤独や喜怒哀楽が押し込められ、内側に閉じ込められていたはずのごく普通の民家だった。片側の壁が崩れて部屋の中が見渡せる。勉強机や炬燵やテレビや冷蔵庫が、その下に投げ出されていた。壁に張られたカレンダーが痛々しい。半ば焼けた布団が生々しい。バスの乗客たちはそうした光景を目にするたびに感嘆の声を上げる。女子高生たちは嬌声をあげる。わたしはしかし声も出せないでいる。どこかで見た光景だった。それはとても近しい風景だった。
 JR西宮の駅前でバスを降り、三宮に向かって戻りながら、片はしから現場を巡った。歩道にはわたしと同じようにズック靴を履き、リュックを背負った人々で溢れていた。みな、黙々と歩きつづける。車道は救援車や自衛隊や自家用車で渋滞が続いている。救急車両のサイレンが途切れること無く鳴り響いて、耳に痛いほどだ。
 土埃の匂いがした。生ゴミの匂いもする。焼け跡の匂いもした。わたしが関与した多くの家は無傷のまま残っていたが、母屋や蔵の倒壊した家もあったし、隣家が寄り掛かかるように倒れたために二階から上の折れ曲がった家もあった。古い塀の倒れた家、水路のコンクリート蓋が粉砕されて渡れなくなった家もある。2号国道を西に向かいながら、北へ南へそうした一軒一軒を訪ねて歩いた。裏の露地は瓦礫がまだ道を塞いでいて、それを乗り越えるようにして歩くことも多かった。
 わたしの会社が下請けをフル動員したところで、おそらく外部の復旧だけでも一月に十棟がいいところだろう。そうした家屋が延々と続く。そう考えただけでも愕然となる。今回の震災で、マスコミはこぞって都市文明のもろさについて言及する。自然の猛威の前に、人間は弱く無力だと。高度な文明に奢った人間に対して自然が鉄槌を下したのだと。…しかし、そうした問題ではないと、わたしは感じている。確かに都市の高度な機能が被害をひどくしているのだし、またそれが復旧を困難にしているのだと言える。そして、わたしはそうした危うさを懸念して、自然に則した生き方を希求した経緯もある。が、ここで目に入るのはそうしたことではない。大地震はすべてを等しく破壊する。三宮の高層ビルだけではなく、淡路島の農家も粉砕した。いま私の前で破壊されたのは人の暮らしだ。電気がすでに復旧し、銀行のオンラインもすぐさま復活したように、文明はしたたかに生き返る。しかし、人の暮らしは容易には取り戻せない。まして、その心の傷は癒えることがないだろう。それがわたしの見た今回の災害の意味だ。
 そして、わたしは思い出した。
 わたしが神戸に来て間もない、今から十年ちょっと前に書いた「直下型」と名付けた詩を。

さて
その十二分の間に
ぐらりと来るのだ
揺れは徐々に高まり
茶だんすでは食器が合奏を始め
壁の絵が落ち
本棚も倒れる
揺れは横から縦に
僕は煙草に火を点け
スパゲティの茹で上がるのを待つだろう
クッキングタイマーが
チン
と ささやかに役目を果たすと
世界は崩壊する
茹で上がりながら
ついに名も与えられず
食されることもなかったスパゲティは
まだ人生の目的を見出していなかった僕や
来年度予算を審議中の国会や
ようやく新居を手に入れ
移り住んで間もない家族や
ニジュウヤホシテントウや
オコゼや
セイタカアワダチソウと共に
滅び去る
それでもそれが
悲しいことだろうか

何もかもが消え去って
最も地上らしくなった地上には
我々の信じてきたものや
信じようと思ってきたものや
信じたいと考えてきたものたちが
ゆらゆらと
陽炎のように立ち昇っては消えるだろう

その次に来る地震をもう
誰一人
呪ったり恐れたり
苦々しく考えたりする者はないのだ
お前の為に
そして実は僕や
僕のスパゲティや
地上に今在る全てのものの為に
そんな朝の来ることを
願ってみるのは

なのだ
ろうか

 わたしは予言したのではない。待望したのだ。自らを含めた人間と、人間の文明すべての崩壊を。ただ、大きな誤算が有った。すべては崩壊しなかった。おまけに、わたしもその中に加わわることなく生き残ってしまった。すべてが崩壊したなら問題にすらならなかった筈の「死者5090名(1/28現在)」という数字が、そして厳然としてそこにある。それは違う。一人でも人間が残ってしまえば、そこから新たな文明は構築される。そして残りの人間の数だけの死が歴史に刻まれ、その意味が問われる。わたしの待望したのはそんなことではなかったのだ。
 逃れるようにしてわたしは道を急いだ。行程の半ばあたりからすでに腿の筋肉は張り、足裏のまめが痛みはじめていた。芦屋を横断し、被災地東部でもっとも凄惨な光景の東灘を横切る。廃墟、という表現は似つかわしくない。そこには人と車が溢れている。誰もが力強く歩き回り、サイレンとクラクションが交互に鳴り渡り、あらゆる場所でささやかな復旧作業が開始されている。仮に人間の文明が脆いと識者が言うなら、わたしは、しかし人間はあくまでしたたかでたくましい、と言い返そう。
 ボロボロの店をそれでも開けて飲み物だけでも提供してくれるハンバーガー屋があった。道行く人を片はしから呼び止めて汁粉をふるまうおばちゃんたちがいた。九州から回送されたバスの運転手は料金が投げ込まれる段ボール箱の中身を見ようともせず、客と相談して大雑把に停車場所を決め、そこで客を降ろし、客を乗せる。そして、誰もが賑やかに語り合っている。どこの道は混んでいる。あそこの避難所には毛布が足りない。どこのおじいちゃんが家に押しつぶされて亡くなった。どこやらのテレビのインタビューを受けた。そこの公園で給水をしてる。あそこに行けば弁当をもらえる。…多摩ナンバーの消防車が放水し、静岡県警の警官が交通整理をし、千葉ナンバーのガス復旧車が道路を開削し、九州訛りの青年ボランティアが自転車を飛ばす。これほど活気に溢れた神戸の街を見たのは初めてだ。足が棒のようになったわたしを、最後にはショッピングカートを引いたおばあちゃんが追い抜いていった。
 わたしは自分の無力さを笑った。
 人間は無力でいて、たくましい。
 都市文明は脆いが、不死身だ。
 感傷はテレビのドキュメンタリーに任せておけばいいし、政府の責任追求は国会で勝手にやっていればいい。
 わたしは不首尾に終わったわたしの願望を棚に上げて、なにやらわくわくしている。いまここは日本で一番不幸な場所でありながら、一番おもしろい場所だろう。千円のおにぎりを子供に売りつける悪党もいれば、焼いたパンを全部ただで配っている善人もいる。凄惨な死の隣にすさまじい生がある。ひっそりと隠し通されてきたものが白日に晒され、本音でしか何事もできず、誰もが涙もろい。強者と弱者が激しく分別され、それでいて両者は同じ地上に立っている。昨日まで電子レンジのスイッチを押していた指が今は薪をへし折り、キーボートのうえにかざされていた手が瓦礫の山を掘り返す。
 この街でいま無視されることは、永久に人類にとって必要のないものだろう。人はまず灯りを求め、食糧と水を求め、住まいと衣類と毛布を求め、ゴミの収集を求めて、今では本と鉛筆とノートを求めている。要求はさらに高まるだろうが、その後、復興を終えてから初めて求めるものなど、もう要らないのかもしれない。
 誰もが労働者となり、哲学者となり、宗教家となったこの街の横断はおよそ30キロ。6時間を要してようやくわたしは新神戸に辿り着いた。すでに精も根も尽き果てたわたしを尻目に、ますます街は躍動感を増していくようだ。
 ひび割れた階段を手すりに掴まって降り、壮絶なラッシュを予感しながら、わたしは温かい夕食の用意された家への帰路についた。



いま読み返して、なんと饒舌なのだろうと感心します。
そしてまあ、多感なこと、いろいろ考えること…
それらのエネルギーの源はもちろん、あの被災地と被災地の人々であったのでしょう。
あの頃、神戸周辺の街にみなぎっていたそのエネルギーは何だったのかと思います。
地震の壮絶なエネルギーが呼び起こした、それは人間の根元に隠されて眠っていたエネルギーなのかもしれません。
さしずめ、地球という生命体の持つ自然治癒力みたいな…
その絶えることのない力強いエネルギーが、今また新しい被災地に余すことなく注がれることを、心から願います。

いま、日本人の美徳ということで世界の賞賛を受けるにふさわしいのは、実のところ被災地に生きる人々、被災地で活動を続ける人々だけかも知れない…ガソリン渋滞や食品の買い占めなど、ごく周辺で起こっている事象を語りながら、一昨日高橋さんとそんな話をしました。

 


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